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日時
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明治41年12月30日11時30分頃
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場所
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利根川宝山沖=利根川本流と浪逆の浦と小見川から来る水路の合流箇所
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校名
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東京高商(現一橋大学)の7名 フィックス「朱雀」
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舵手
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徳野 隆祐
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整調
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田代 香苗
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五番
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小寺 直吉
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四番
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村井 俊二
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三番
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矢ヶ崎 卯市
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二番
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橋本 源太
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軸手
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柏木 粂作
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遠漕日程
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25日
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出発 柴又泊
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26日
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江戸川から利根川に入る木下泊
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27日
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笹川泊
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28日
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銚子到着および泊
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29日
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銚子にて休養
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30日
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早朝出発 宝山沖まで来ると波、風が強くなり茨城県若松村太田で天候回復をまつ。おさまる気配がないので艇を出し佐原に向かう。
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原因
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高浪と強風による転覆
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事故状況1
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2名死亡
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1月 2日正午 遭難地点で村井の遺体発見
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1月28日9時 1km下流で柏木の遺体発見
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残りの5名は若松村字宝山の柳川惣助の家人が転覆している艇を発見。2隻の和船を出して救助される。助けられたとき5人とも瀕死の状態で村の人たちの手厚い看護で一命をとりとめた。
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事故状況2
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事故状況「朱雀艇遭難記」より
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荒れに荒れる風はますます強くして寒威凛烈、指を落さんばかり、波はいよいよ高くして恰も熱湯の沸騰するが如く、所謂三角波をなす。少し舵を横に転ぜんか、これ即ち破滅の時にして、波に充分抵抗するに足りる速力なき艇は、忽ち波浪のために方向を転ぜられ、横波を食らって転覆の悲運に遭遇せん。嗚呼、ただ進むあるのみ。舵手励声一呼すれば、整調声あり、「元気出してッ」、四番語を次いで一同を励まし、二番愉快々々と連呼し、艇首に於いて笑声あり。俄然、烈風怒濤耳を劈く
。軸手柏木の疾呼「テーク ケアー」、この時遅く、かの時早く、乗るよと見えし艇は、波を真二つに裂いて、頭を波の中に突込みぬ。舵手は「大丈夫、漕げ」と命ずるに、総員漕がんとしたけれども能はず、踵を接して崩れ来る第二の波は、艇をトップより呑みて、艇尾は水面上にあがり、整調田代、大声警告を与へたけれども、もはや如何ともせん術なく、マント、羽織を着せる舵手は、マントをはね、帯をとく間もなく、艇は見る見る白波の中に沈み、水は健児が胸を浸さんとする時、波は全員を艇の外に押し流して、不幸なる七人は巨浪の中に漂へり。軸手柏木は直に艇より放たれて、巨浪の中に浮沈するにぞ、矢ケ崎は大声にて「艇を離すな」と呼びしに、「オウ」と答へしのみにて、終にその姿は利根の浪の中に消えぬ。幾度か廻転せる艇に、辛うじて取縋れる六名は、こと時、上流より流れ来る帆船を望み見て、声をあげて救助を求めしが、来るよと思ひしかの船は、舵を転じて下流に向へり。村井はこれまでと覚悟しけん。首をシートの下に突入れて、艇とともに廻転し、終に放たれて水底に沈みぬ。
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参考文献
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ボート五十年 久保勘三郎/宮田勝善 著
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