ストレンジ師の死について

 

 私が日本ボートの生い立ちについて参考にした「ボート50年」*1のなかで著者は気になることを書いている。「故人の名誉を傷つけるよな想像を逞しうすべきではい」といってはいるが逆にそれがストレンジ師の死が不自然であると暗に述べているようだ。その文章をそのまま抜粋して載せている。なお、文中のエディスはストレンジ師の婦人、ブリアン大尉は婦人がフランス語の勉強のため、神田三崎町の仏和女学校へ通う傍ら彼の家によく出入りし、親しい間柄だった。また明治18年のアマチュアRCとの試合のため東大のコーチをした3週間の間に婦人との愛情に溝ができはじめたとも述べている。

*1著者 
久保田勘三郎/宮田勝
時事通信社:s32年


 

 七月五日の午後、ストレンジ師は書斎に閉じこもって、黙々と答案を調べていた。四時頃、エディス婦人がコーヒーとトースト、それに日本のお茶をもって入って来た。ストレンジ師は黙ってお茶を受け取り、一息グッと飲み干した。しばらくすると、急に胸苦しくなって、しきりに身をもがいていたが、一時間ばかりすると、ゴクリと首を垂れて、そのまま息が絶えた。驚いた婦人は、女中のお松を呼んで遺骸をベットの上に運んだ。急を聞いてスクリッパ博士、ベルツ博士、ブリアン大尉らが駆けつけて、注射をしたが、何の反応も示さなかった

 訃報に驚いた一高教授鈴木知雄を始め、武田千代三郎、岸清一、池田賢太郎、柴野是公、志田ナ太郎、日下部三九郎といった東大、一高のボート選手一四,五名が宙を飛んで来た。そして変わり果てた恩師の姿に、しばし茫然としていたが、やがて瞼をとじて合掌すると、みんなの目から大粒の涙が、ポロポロとこぼれた。武田千代三郎は慟哭して、いつまでも顔をあげることができなかった。

 享年三十三、死因は心臓麻痺、葬儀は七月七日に行われ青山墓地に埋葬された。

 それから丸一年たった明治二十三年の夏、エディス未亡人はブリアン大尉と築地明石町のフランス教会で、花々しい結婚式をあげた。しかしわれわれは名医スクリッパとベルツの両博士の診断に信頼して、故人の名誉を傷つけるよな想像を逞しうすべきではい。むしろ二人の遺児のため、新しい生活を求めたエディス婦人の苦衷に同情して、神の祝福を祈るべきであろう。