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戸田コース誕生

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昭和15年に開催予定だった東京オリンピックのボートコースとして昭和12年から15年にかけて建造られています。しかし、この東京オリンピックは第二次世界大戦のために中止になりました。
しかし中止されたとはいえ国内の大会では使用しています。
その各種国内大会も戦前は昭和17年を最後に戦後大会が再開されるまで大会では使用されませんでした。私の父が旧制中学時代その昭和17年に行われた戦前最後戸田で行われた大会に出場しています。多分、現在のインターハイに相当する大会だと思いますが(いずれ調べます)決勝レースで優勝したのは旧制青森中学、現在の青森高校で残念ながら準でした。が、青森に持ち帰った優勝旗も青森市内が空襲にあったとき校舎と一緒に燃えてしまったそうです。自分たちが優勝していれば受け継がれてきた優勝旗を消失することはなかったのではと嘆いていた馬鹿な親父です。その当時戸田はまた戸田村(?)だったそうで食料品の買い出しは東京都北区の赤羽に行ってたそうです。もっとも父は戦後4年ほどのシベリア抑留からの復員した年に戦後再開された大会(何の?)に旧制中学OBチームにくっついて来たのも戸田だったせいか記憶がいりまじっているみたいです。ここの画像に昭和17年当時のコースの写真を載せたいのですが、捜索中です。私が子供の頃に見た写真の記憶ではコースの土手と水しか写って無く回りに家も無い状態だったと思います。

下の写真は雑誌の写真をスキャナーで読み込んだものです。多分建設が開始されたころのものですが17年もこんな感じでした。

ースの建造には浦和刑務所の囚人が労役として働いたり、学生によるボランティアも多かったようです。東京オリンピックのためとはいえ物資もなく生活水準が低かった当時こことを考えると大変だったろうなと思います。

昭和39年に東京オリンピックが開催。東西約2,500m、南北約300mの広さ。
昭和37年に埼玉県が都市計画決定し、漕艇場の拡幅と周辺施設の整備がされ、昭和39年12月に県営公園となりました。

ゴール側(国立艇庫前)から見た戸田コースです。約2.5kmの直線はスタート位置が見えません。写真を撮った日はあいにくの雨で時間帯も8時ころなので練習艇がいません。

 

三菱2階からみたゴール側水門。スタート側水門より笹目川から水が入るようになっていてゴール側から菖蒲川に抜けるようにしてあります。水位調整が行えるわけです。写真右の上側は埼京線及び東北新幹線の線路になります

埼京線が出来る前は前新田循環の国際興業のバスで西川口駅にでるか、赤羽行きのバスで赤羽駅、または高島平行きのバスで都営三田線の蓮根駅からでないと都内の交通網に接続出来ませんでした。埼京線が出来る前は東京都と接している市なのにバス、自転車などの交通手段を用いるしかないため夏休み中なんかは面倒くさくて戸田にいっぱなし、たまに気が向いて池袋なんかに出るとこっちはTシャツを着ているのに皆長袖の服装だったりして、これに似たようなことが沢山あって故に「陸の孤島戸田」とか呼ばれてましたね。

 

 

戸田コースは社内大会や学内大会等でかりきることができます。もちろん有料です。結構しらない人が多いです。大会時にはお金払ってコースを借りてレースしてるんです。
  
6ヶ月まえから予約ができます

 

半日

1日

1000m

3、750円

7、510円

2000m

7、510円

15、000円